扉を開いた途端、家の中から漂ってきた強烈な匂いにニールは家に入る足を止めた。
鼻孔にまとわり付くこの匂いには覚えがある、ような気がする。
そうして今日の日付を確認して納得してから漸く玄関にあがった。
扉を閉めて外の音を遮断すると家の中の声がよく通る。リビングの方向から聞こえてくるのは聞き慣れた二人の会話だ。
今日は啓が遊びに来ると言っていた。いつものことだったので何をするのかとも聞かなかったがこういうことだったのか。
(可愛いことしてるなぁ)
二人ともこういったイベントごとに関心はないと勝手に思っていたが、そんなことはなかったようだ。
毎年教え子から贈られる小さな包みを思い出して、ニールは二人の印象を改めた。
このままキッチンに行くのもどうだろうか、と思う。余計なお世話かもしれないが、こういったことは人には(ましてや異性なら)見られたくないのではないだろうか。
ニールは靴を脱いだ時点で動きを止め、二人に聞こえるように大声をあげた。
「ただいまー」
自分ではわざとらしかった気もするが、キッチンから返事が返ってきたので問題はない。
「ニール、おかえりー!」
「おかえりなさーい!」
それから数秒してリビングに続く扉が勢いよく開いた。エプロン姿の啓が飛び出してくる。
「ちょっと待って下さいね!今片付けますから」
「気にすんなよ。自分の部屋にいるからさ」
「あっ、はーい」
明らかにほっとした表情に苦笑がもれた。そのままリビングに向かうことなく自分の部屋に入る。
朝の状態のままなベッドを見るとダイブしてしまいたくなる。ニールは己の欲求に従い上着を脱ぐとベッドに身を放り出した。
キッチンの甘い匂いがここまで届いてくる。
(女の子ってすごいな……)
ニールとて受け取った経験は数え切れないが、こんな風にそれに向けて彼女達が頑張っているのは初めて見る。
普段の二人からは想像出来ない姿を思い浮かべると、くすぐったい気持ちと交ざって胸に石のような塊が転がった。
それは、華南のチョコレートを贈る相手に自分は含まれているだろうという期待と、誰か本命でも作っていたらどうしようという不安だ。
家族が離れていく寂しさと、顔も知らない人間への嫉妬に気分を落とす。
(俺もまだ若いなぁ)
自分にそう言い聞かせてニールは瞼を下ろした。日頃の疲れはすんなりと睡魔を運び、彼が眠りに就くのもすぐのことだった。


「ニール!もう夕飯の支度しなきゃ!」
ごんごんと扉を叩く音。聞こえてくる華南の声にニールの意識が覚醒した。
真っ先に視界に入った窓からは夕日が差し込んでいる。ベッドサイドの時計に視線を向ければ針は四時半を指していた。
そうだ。そろそろ夕飯の用意をしなくては。
「分かった分かった。今行くよ」
何時間寝ていただろうか、と考えてから、そういえば家に帰ってきてから時計を見ていないことに気付く。
すっかり皴になってしまったワイシャツを脱ぎ捨てて椅子にかけられていたTシャツを着る。それだけでは寒かったのでジャケットも羽織った。
扉を開けてみると、あんなに強かった甘い匂いは心地好い甘さを漂わせるくらいになっていた。キッチンの惨状を覚悟していたニールだったが予想に反して器具は全て片付けられている。
(あのカナンが……)
込み上げてくる感動は保護者としてのものだ。どうしてもこういったときは彼女を子どものように扱ってしまう。
そんなニールは冷蔵庫を開けた瞬間に現実に引き戻された。
「なんだこれぇ?!」
一つの棚を占領しているのは明らかに手作りのお菓子達。チョコレートであることは間違いないがそれらの数の多さに声が裏返ってしまった。
「あっ、ニール!」
その後ろから華南が慌ててドアを閉めるものだからニールは頭を挟まれそうになる。
「ごめん!必要なものは私が取り出す!」
そう言われて冷蔵庫の前を占拠されてしまえば従う他なく、夕飯の献立を思い出して材料を取ってもらうことにした。
渡すときの華南を見ると、頬が僅かに紅潮しているのが分かる。
その理由が分からず、胸にもやもやしたものを感じながら疑問に思ったことを聞いてみることにする。
「何でそんなに数があるんだ?」
「……んー。えーっと、私と啓ちゃんの分……」
「あぁ」
自信なさ気な言い方が気になったがそう言われれば納得出来る。
「友チョコは私と啓ちゃんが一緒に渡すの。ニールとライルと、ハレルヤとアレルヤ。あと、啓ちゃんが部活の子に、って。明日取りに来る」
「へぇー……、え?」
次の言葉にも頷きはしたが一つ引っ掛かったことがある。
「草野はハレルヤに友チョコでいいのか?」
「あー……それは大丈夫。友チョコとは別に本命も作ったから」
「あぁ、そりゃ納得だ」
納得したついでに余計なことも聞いてみる。華南は「作ってた」とは言わず「作った」と言った。もしかしたら、という思いがニールに口を開かせた。
「カナンも本命作ったのか」
「えっ?!」
「さっき、作ったって言ったから」
「あっ……!えっと……、それはっ、う……うー」
言葉にされるより素直な反応に苦笑するしかない。そうして胸に寂しさが戻ってくるのを感じながら口を開いた。
「寂しいなぁ」
言うつもりのなかったことを、思わず言ってしまう。
「えっ?」
「カナンも恋していくんだって思うと、なんだかなぁ……。いや、俺がこんなこと言ってちゃ駄目なんだけどな」
口元に笑みを浮かべても寂しさに揺れる瞳は隠しようがない。こんな情けないところは見せたくないのに。
「無駄な心配はしなくていいよ!」
俯いたニールを下から見上げている華南は強く言った。それは慰めと呼ぶには怒りに満ちている。視線をぶつからせた彼女の目に強い意志を感じ、思わず引き込まれそうになった。
「私の本命はニールなんだから」
「へ……?」
気になっていた彼女の本命が自分だなんて。嬉しさより先に驚きが出てきた。
それから本命の意味をもう一度思い返してみる。浮かんでくるのは女子から男子への愛の告白をこめたそれ以外にない。
何も反応を返すことが出来なかったニールに華南はとうとう耐えられなくなったらしく、テーブルに並べられた夕飯の材料である玉葱の袋を力に任せて引き破った。
ごろんとテーブルに玉葱が転がっていく。
「もういいから!明日を楽しみにしてて!」
「分かったからカナン!玉葱に乱暴するなよ!」
それが、乙女達の日であるバレンタインデーの前日のことである。





あまいのはキミのため 





 

 

 

 

 

 

 

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